たとえば『クィーン』に見られる映画的欠落
エリザベスの乗る車が故障して立ち往生するシーンが、どのように描写されているか。
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(車内からのエリザベスを映すショット)
運転している車が川の途中で止まる
(車の外からのエリザベスが降りつつある車のショット)
エリザベスが車を降りる
(車の腹を映すローアングルショット)
エリザベスが車の下を覗き込む
(ふたたび車の外からのエリザベスと車を映すショット)
エリザベスが携帯を手にし、車が故障したので助けを求める。
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さて、わたしたちはこのシーンで、いつ“車が故障した”ことを理解するだろうか?
もし、セリフがなかったとして“車が故障した”ことを一目に納得するのだろうか?
一方で、『エディット・ピアフ』の車が故障したシーンを見てみる。
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(前方からの車を映すショット)
エディットと愛人たちが楽しそうにオープンカーを走らせている
(後方からの車を映すショット)
車がふらふらとする
そのまま道路脇の柱にぶつかる
車から煙が上がる
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過去には車に限らず、“機械が故障する”描写は数限りなく撮られている。
古くは『メトロポリス』を始め、それぞれの作り手は“故障する描写”に対しても創意工夫をしてきた。
(比較的記憶新しいところで『ユリイカ』のハザードランプによる車の故障は、状況説明に留まらず、物悲しい“間”さえも表現する素晴らしいシーン。)
そしてエディット・ピアフは、クラシカルでありつつも実に誠実な“車の故障”描写をしている。
ところが前者の『クイーン』は、セリフを介して初めて納得しうる“車の故障”である。
『クイーン』に象徴されるテーマ先行映画が孕む危険性とは、たとえるなら“戦争反対”と書かれたヘッタクソな書道を人々が素晴らしい作品だ、と賞賛し、あたかもそれこそが書道であるかのように摩り替わってしまうこと。
……
『RD 潜脳調査室』のデブフェチっぷりは、『かぼちゃワイン』経由ですか?
それとも『よつとば』経由あたりなんでしょうか?